鍋倉公園

の公園は、鍋倉城の跡であり、明治初年から今日まで市民の憩いの場として親しまれてきました。現在は、鍋倉城址のほぼ全域14ヘクタールを、「都市公園」に整備し、多くの人に利用されています。

鍋倉城の由来

倉城は、はじめ横田城と称し、天正年間(1573〜1591)阿曽沼氏の築城と伝えられるこの城は本丸、二の丸、三の丸などの曲輪が存在する中世的山城の形式を止める。阿曽沼氏没落後の寛永4年(1627)八戸から南部直義(直栄)が入部し、240年余りにわたって遠野南部氏12,500石の居城となった。

鍋倉城跡 ←ごくありふれた感じの佇まいなんですが、城址に入ってみるとこれがかなり大規模な山城であることが判明!ハッキリ言って凄いです。ちょいと城跡フェチな方なら丸一日歩き廻っても飽きないと思います。sizuももう一度じっくりと歩いてみたいと思います。
→旧搦手門
阿曽沼氏の時代、横田城搦手門「二桜門」のあったところで、両袖に土塁が続き、場内空堀に接し、西方防備の緊要な拠点であった。裏登城坂である。慶長7年(1607)南部領となり盛岡南部利直の命により「二楼門」を廃し、本丸の西口に平門の搦手門を建て、門桝形に足軽を配置して、人の出入りの監視と警備にあたらせた。
搦手門跡