雪中行軍避難記念碑

後藤伍長

治35年1月23日午前6時55分、陸軍歩兵大尉−神成文吉の率いる210名の一隊は、この地を通過して、田代元湯温泉へ向かい翌日八戸平野へ上陸するロシア軍を三本木平野で迎え撃つという想定のもとに幸畑陸軍基地を後にした。

の途上において猛吹雪に遭い、3昼夜にわたり孤立し、辛うじて救助された者が、わずか17名、193名が凍死した大遭難事件である。

の惨状を連隊に報告するべく、指揮官神成大尉の命をうけた後藤房之助伍長が、出発以来5日目の27日正午、豪雪の中、仮死状態のまま佇立しているところを捜索隊に発見された。村上其一軍医の手当により11分後に蘇生し、そのかすかな発言により遭難事件のあらましが明らかになった。

の手柄が認められ、銅像建立となった。モデルは、遭難事件の象徴的な存在となった−後藤房之助伍長、制作者は大熊氏広である。

像は明治37年10月23日竣工したが、日露戦争中のことであり、軍当局の配慮から明治39年7月23日、軍・官・民・それに遺族ら多数の人々の参列のうちに除幕式が行われた。

像建立の目的は「遭難の事実を明らかにし、且つ後の行軍する者の目印とする」とあります。