寒立馬

寒立馬と青汁さん

・寒立ち目の生い立ち

つて下北地方には、野放し馬と呼ばれる比較的小ぶりで寒さと粗食に耐え、持久力に富む馬がいた。

の馬は南部馬(現在の岩手県に生息していた馬)を祖として、藩政時代から明治、大正、昭和にかけ、主として軍用を目的に外来種馬との交配によって改良されてきた。

でも、当地尻屋では、この野放し馬をフランスのブルトン種と掛け合わせることによって、独自の種類を生み出した。

在、南部馬の血を受け継いでいるのは、東通村の寒立馬だけとされ、200年以上におよぶ歴史の中でつくりあげられた馬は人々と共に歩んできた。

放し飼いです

・『寒立馬』名称の由来

くから地元の人たちは「野放し馬」と呼び、特定の名前は無かった。

和45年、当時の尻屋小・中学校の校長先生であった岩佐勉氏(むつ市在住)が尻屋の人たちを前に短歌を詠んだ。
「東雲(しののめ)に勇みいななく寒立馬(かんだちめ) 筑紫ヶ原の嵐ものかは」
という歌であった。それから、野放し馬は「寒立馬」と呼ばれるようになった。

なみに「かんだち」という言葉はカモシカが厳冬のなか、何日もじっとたたずむ姿を地元のマタギ(狩人)の間では「カモシカの寒立」と呼び、野放し馬にも同じような姿を見ることができることから「寒立馬」と命名した。

寒立馬とsizu