光信公御廟所

光信公御廟所

徳3年(1491年)南部下久慈から種里にやって来た光信は、文を以てその内を始め、武を以てその外を征したのでその勢いは四方に広がり、近隣のものは進んで家臣となった。

こで光信は大浦へ進出して城を築き長子盛信を置いて自らは種里に住城した。

永6年(1526年)10月8日。信光は種里城で歿する。ときに67歳。その臨終にあたって次のように遺言したという。
将師としての威厳を少しも欠くことなく甲冑を着し、剣を帯び、鎧透しの短刀をさげ、腰に大螺(ホラ貝)をつけ、立ったままの姿にして巽(たつみ=東南)に向けて埋葬せよ。これによって自分は神となって外国の敵が領内に進入しないように万代までもここに留まりにらみをきかせていよう。
の遺言によって、光信は生きている時と同じような姿で埋葬されたという。またこの御廟所(ごびょうしょ)は「御霊のお墓」と称されて不思議な霊力があり御廟所内は現在にいたるまで雑草が生えない。領内に悪疫が流行した時にここに来て祈祷するとたちどころにそれが終息するなどその霊験はまことにあらたかであると言われている。

政時代から白木の柵以外は一切造らなかったがこれは質素を旨とする信光の遺言によるものだと言い伝えられている。

信光公