国指定史跡
七戸城跡

七戸城跡
戸城の築城年代および築城主については
  一.鎌倉時代初期   七戸太郎三郎朝清
  二.鎌倉時代末期   工藤右近将監
  三.南北朝時代初期  南部政長
等の諸説があり、必ずしも明確でないが、資料の上に最初に登場してくる七戸の領主は、鎌倉幕府方の武将工藤右近将監である。

の工藤氏の領地七戸は元弘3年(1333)鎌倉幕府の滅亡にともない宮方に没収され、建武2年(1335)、幕府打倒に功績のあった南部政長(後の根城南部第5世)下賜された。

らいこの城は八戸根城とともに南朝方の一大拠点となり、特に津軽地方に対する備えとして重きをなした。

は柏葉城とも呼ばれ、作田川、和田川合流地点付近の舌状台地の先端部に気付かれた平山城で、背後に奥羽山麓を控えた要害の地にあり、本城、下館、宝泉館、西館、角館、北館の六郭よりなり、各郭館には水濠、もしくは空堀をめぐらした規模雄大なものである。

水濠

北両朝合体後は根城南部第八世政光がこの城に退隠し、七戸氏を名乗った。

の後、長くその子孫が在城したが、天正19年(1591)七戸家国の時、九戸政実とともに宗家に反し断絶し、城もまた豊臣秀吉の諸城破却令により破却された。

かし、七戸の重要性から改めて七戸氏が置かれ、江戸時代初期七戸直勝・直時・重信と3代にわたり在城した。

文4年(1664)重信が盛岡南部第29世に抜擢されてから後の七戸は、南部藩直轄となり、城内に代官所が置かれたが、明治2年(1869)南部信方が七戸藩主となるに及んで、ここに藩庁が置かれた。

城内

跡は今もなお中世の城のおもかげをよく残している。